暴走書家

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

『越える必要のない壁-7-(完)』

 その後、一言も言葉を交わさずに、雫は俺の家に向かって、車を走らせた。
 その沈黙の中で、雫は何を考えていたのだろうか。
 表情からは何も読み取れない。
 俺も、その沈黙を崩そうとはせず、流れる風景を眺めていた。

 お互いの立場を、その関係を崩す気はない。
 けれど、一つ、俺は、その壁を越えようとしている。
 それでも越えられない壁、いや、越える必要のない壁も、あるだろう。
 越える事を、決して諦める訳ではなく、その壁の存在を認めて、受け入れる事。

 マンションの駐車場に入り、来客用のスペースに車を止めて、俺の家まで上がってきた。
 夕食の準備をするから、と雫に伝えると、雫は、リビングで、雑誌を手に取り、そこに目を移していった。
 リビングに雫を残し、俺はキッチンへと向かう。
 雫ほど上手ではないが、それでも、不快にさせない程度のものは作る事は出来る。

 出来上がって雫を呼びにいくと、雑誌から目を上げ、俺に続いてキッチンへと入ってきた。
「悟の手料理って随分久し振りだな。」
「口に合わなかったら、遠慮なく言ってくれ。」
「あはは。そうさせてもらうよ。でも、悟がそんな、手抜かりする訳ないだろ。」
「手は抜かなくっても、雫には敵わないからな。」
「好みの問題もあるだろ?」
「まあ、そうだが。」

「じゃあ、いただきます。」
「いただきます。」
「あ、へえ、これは、ちょっと変わってるね。こういう味付けは、俺はしないからな。でも、美味しいよ。」
「ああ、これは、ちょっと秘密があって、でも、少し癖があるだろ?」
「そうだね。でも、嫌味な味じゃないよ。」
「そう言ってもらえると、嬉しいよ。」

「でも、こっちの煮物の方は、もう少し薄めにした方がいいんじゃないか? 折角、良い出汁使っているんだろうし、ちょっともったいない気がする。」
「まあ……言われてみるとそうかもな。」
「でしょ? 今度試してみなよ。」
「ああ。」

 一人で食べている分には、あまり気付かない事。
 指摘されてみて、自分でも考えてみて、答えを出す。
 食事だけに限らず、何らかの行動においてもそうだ。
 そういう相手が、いてくれるのは嬉しい。
 その人その人によるが、欠点を指摘するだけでは駄目、長点だけを誉めそやすのでも駄目。
 どうしたら、相手が、より伸びる事が出来るのか、的確に判断するのは難しい。

「ごちそうさま。外食も良いけど、他人の手作り、って言うのもまた良いな。」
「お前、外食は殆どしないだろ?」
「基本的にはね。でも、ごくたまに、腕が良いって言う店の料理を食べてみるのも、良いものだよ。流石にプロ、って言うだけある。」
「雫にそう言わせるとは、本物だろうな。」

「後片付け、手伝おうか?」
「ああ、ありがとう。じゃあ、そっちを。」
「了解。」

 片付け終わると、雫が、先ほど読んでいたのだろう、雑誌の事のついて尋ねてきたので、俺の知っている範囲で答えた。
 とある小説家が書いた、小説風のエッセイ。
 その連載は、まだ、始まったばっかりだったが、俺も、それを気に入っていたので、長編小説なら、単行本になっている、と伝えた。
 何作か出しているが、まだ、俺は、一冊しか読んでいない。
 しかし、それも面白かったので、他の作品も読んでみようと思っているところだった。
 
 雫は、その小説家の名前『神崎晴彦』とそのデビュー作『いつか晴天を信じて』をメモにとっていた。
 最近、雫に面白かった本があったか、と尋ねたら、短編集だけど、と立川怜と言う作家の『海の底の底』と言う本を紹介された。
 そして、その単行本の表紙を手がけたイラストレーターと知り合いなんだと。

 それから、ベッドへ向かった。
 ここで、雫とセックスをするのは、本当に久し振りな気がする。
 大概、雫の家に行ってしまうから。
 それでも、雫以外とシていないわけでないから、一応のものは揃っている。

 重なってくる雫のカラダの重みを受け止める。
 唇が啄ばむ様に触れてきて、やがてしっとりと重ねあい、その舌の進入を許す。
 腕を首に回して、更に深く口付けながら、舌を絡め合い、吸い上げる。

「ん……ふ……」

 キスに酔いしれながら、更に深い繋がりを求める。
 雫の細くて長い指が、器用に俺の肌をまさぐり、官能を高めていく。
 やがて唇が離れ、肌へと沿っていく。

 指で、舌で、歯で、唇で、愛撫され、敏感にその快感を受け取っていく、乳首。
「ああ……ん……は……」
 自分のペニスが、勃ち上がっていくのがわかる。

 そうして、勃ち上がったペニスを口に含まれて。
 その唇と、舌で、刺激され、更に、弱い部分に軽く歯を立てられた。
 それから、その部分を舌で舐め上げられる。

「あ……雫……ローションとゴム、上から二番目の引き出しに入ってるから……。」

 一旦、行為を中断し、引き出しから、それを、取り出す。
 ローションを手に垂らして、俺のアナルに挿入しながら、再び口淫を開始する。
 射精を促す訳ではなく、快感を引き出すための口淫。

 俺のカラダが受け入れる準備が整ったのを見計らって、雫は、ゴムをつけて、ペニスをアナルに挿入してくる。
 ゆっくり奥まで埋め込んでから、抽挿を開始した。
 前立腺を擦りあげ、俺が感じられるようにしながら、腰を動かす。

「は……ああ……ん……あ……」

 今はまだ触れられていないのに、ペニスの先端から、快感があふれてくるこの感じ。
 押し留める術も知らず、享受する。

 その上、手を添えられて、刺激され、募った射精感を解放した。
「あ……も……イ……く!」
 締め付けた、アナルの中で、雫もまた。

 その熱が、冷めぬ内に、雫のカラダを求める。
 雫のアナルに挿入し、雫もまた、それを享受する。
 お互いが、お互いの、快感を分け合える場所で、それを求め合う。

 そうして果てた快感の後で、その余韻に浸り、乱れたシーツの上にその身を投げ出した。
 火照りが静まった頃、そのままでは、風邪をひいてしまうので、交互にシャワーに向かい、身に衣を纏う。

「なあ、雫が、そのピアスを付け続けるのも、黒い服を選んで着るのも、亡くなった恋人の為か?」
「ピアスはともかく、黒い服を着るのは、元々だよ? まあ、ここまで、徹底はしてなかったけどね。でも、あいつの為、というより、俺自身の為かな。」
「雫の?」
「あいつの死を忘れない為、というよりも、自分への戒めの為だ。俺が、俺自身が、自分の生と向き合って、覚悟して、生きていく為。」
「覚悟? 何の?」
「具体的には……何だろうな。あいつの死に立ち会うまで、俺は、自分が生きている事をどうでも良いと思っていた。生きる事を、どこかで放棄していた。でも、現実には生きている。そして、それは決して独りではない。だから、生きている限り、生き続ける覚悟を、そして、生きていれば、現実に起こりうる事を受け入れる事の出来る覚悟を。」

 普通は、そんな覚悟をして生きてはいないだろう。
 けれど、雫は、覚悟をしているからこそ、恋人の自殺、という現実を受け入れた。
 ただ、それを嘆くだけでは、何にもならないと。
 それが、雫を支える芯にある強さなのだろう。

「雫にとって、大切な人間だったんだな。」
「皮肉な事に、死んだから、こそだな。その頃の俺は、あいつとどこか似てたから、あいつが、死に急いでいるに気が付いていた。そして、それでいて何も出来なかった。確かに、あいつの事を『愛してた』とは思う。だけど、それは、恋愛感情じゃなかった。それは、あいつにしても同じ事。得る事の出来なかった、家族としての愛を、感じていたんじゃないだろうか。恋人だと言うけれど、実際は、それとは違うだろう。」

 恋人ではない、けれど、きっと、もっと深いところで繋がっていたのだろう。
 深かったけれど、脆かった絆。
 いや、脆かったというよりも、強かったけれど、強いからと言って、決して切れない訳じゃない絆。

「実際家族がいても、その愛情は、千差万別だ。当たり前のように感じ取っているから、それを愛情だと感じる事は往々にしてある訳じゃない。」
「知らないからこそ、憧れを、もっと強いものを求めたんだ。それでも飢えて、求める先がなくなって、あいつは死んでいった。俺にはまだ、高部さんがいたからな。そういう意味でも、また違ったんだろう。」

「本物の家族を知らないからこそ、家族という存在に、憧れる、か。まあ、わからないでもないけどな。持てないからこそ、その存在に幻想を抱き、より憧れる。」
「それが、幻想だと気づいた時、絶望するか、それとも、それを、受け入れられるかによって大分違う。」

 雫は、幻想だと気付き、それでも、別のカタチで、他人との関係を結べることを受け入れられている。
 その他人との関係性における様々なカタチを。
 そうして、雫のセックスフレンドであり続ける俺。
 けれども……。

「雫、いつだったか、お前が、俺に話した事。俺は、お前の『共犯者』になれないか?」
「あれは、俺の、理想論だ。誰かに、本当に受け入れてもらおうと思った事はない。けれど、悟は、本当にそれを望んでいるのか?」
「俺は、冗談で言ってるわけじゃない。俺も、お前も、お互いにセックスフレンドという関係を切るはない。ならば、そこに、もう一つ上書きしてもいいんじゃないか?」
「他人から、それを持ち掛けられるとは思ってもみなかったよ。けれど、そうだな、それなら、それなりに、覚悟は必要だぞ。」
「それは、承知の上だ。」
「だけど悟、俺は、お前の事を、ただのセックスフレンドだと思ったことは、一度もないよ。」

 ああ、だから、雫は、これだけ、俺に信頼を寄せているのだろう。
 確かに、『ただの』セックスフレンドではない。
 いつの頃からか、既に、共犯者としての道を進み始めていたのだろう。
 そして、それを、俺が今自覚した。

 その日が、雫をこれだけ、強い人間にした男の命日だったのは、俺が、決めていたからか、それとも運命か。
 俺は、冷蔵庫に冷やしてあった、年代物の白ワインをグラスに注ぎ、雫に手渡す。

「おい、俺は、酒は。」
「いいだろ? 今日くらい。車の心配はするな。アルコールが抜けるまで、ゆっくりしていけばいい。」
「じゃあ、お言葉に甘えて。」
 そうして、グラスを重ね合わせた。
 これから、共犯者として生きていく決意として。

 様々な人間が、人生と言う迷路に彷徨いながら生きている。
 何かしらの手懸りを求めて。
 共犯者として認め合っても尚、俺達の関係が大きく変わる事はないだろう。

 けれど、共に生きる。
 そう、雫が開いたバー、ドイツ語で『Labyrinth 』-迷宮-。
 その巨大な、迷宮の中で、歩き続ける。

スポンサーサイト

PageTop

『越える必要のない壁-6-』

 何故今になってなのか。
 長年に渡って、セックスフレンドという関係を続けてきたのは、ただ単に、惰性だ、という訳ではない。
 雫とて、決して遊びで俺に手を出してきた訳ではない。

 相手との関係性を楽しむ感はあるが、その場限りの遊びで、誰かと寝たり、誰かと付き合ったりはしない。
 嘗てのセックスフレンドや、それ以外で肉体関係があった人間、そういう人間とでも、どういう理由でか、肉体関係を断っても、『友人』として残る人間が、何人かいる。
 マスターのように。

 雫は、付き合っても、あまり、相手に対して『恋人』である事を求めない。
 そして、相手も何故か同じようにそれを雫に求めない。
 求めても無駄、という訳ではなく、それが自然なスタンスのようだ。

 俺自身も、雫の恋人になりたいと思った事はないし、今現在でも、そうは思っていない。
 だが現に、雫という人間を知りたい、と考えているのは、ただ単なる好奇心からではない。
 お互いが、お互いに、異例ともいうべき長さで、付き合いがあるので、結構、色々知っている面もある。

 そして、それを越えて、また一歩、踏み込んで知ってみたいと思うようになったのは、何故なのだろうか。
 歳をとってきたから、少々の安定性を求めるようになったから、そうは思わない。

 全く何の心当たりもなく、ただの気まぐれでか、という訳ではない。
 靖史との出会いと、その関係性の中で、俺の中で、何か少し変わったような感じがする。
 靖史自身が、何かしらの答えを求めて、俺との関係を続けてきた。

 靖史と雫は全く違うし、俺との関係性においてもそうだ。
 年齢の割には、考え方がしっかりしている。
 そう感じたのは、靖史が周囲の人間との感覚の違いに、疑問を持って、自ら頭を悩ませ、行動に出たからだ。

 俺は、そんな中で、僅かに手を差し伸べたに過ぎない。
 だが、僅かなヒントでも手懸りに、靖史が、靖史としてこれから生きていこうとする姿は、頼もしく思える。

 真のしっかりした人間。
 その真の強さはどこから来るのだろうか。
 色々考え、悩み、経験した結果、得る事が出来るものだろう。
 俺とて、何も考えず、悩まず生きてきたつもりはない。
 けれど、俺は、雫ほどの強さを持つ事は出来ない。

 『その日』が近付いてきて、雫から連絡があった。
 俺自身も、その日、何とか仕事をオフにして、空けておいた。
 その旨を伝えると、15時に迎え行くから、という事だった。

 実際、当日になって、15時ジャストに、インターホンが鳴って、雫が姿を現した。
 特に、普段と変わった様子もない。
 表情も、服装も。
 そのまま車を走らせ、とある墓地に辿り着く。

 元々、そんなに混雑する時期ではないだろうし、平日の昼間だ。
 他に、人は見当たらない。
 割と広くて墓の数も多いが、管理が行き届いているらしく、しっかり清掃もされている。

 こに来る途中、『手ぶらでいいのか?』、と尋ねたが、『何も持って行く必要はない』そう答えが返ってきた。
 幾種類もの墓が立ち並ぶ中を歩いて、一つの小さな墓の前で立ち止まる。
 よく見かける、標準的な和型の墓石だ。

「ここが……? 毎年来てるんだろ?」
「ああ。俺の、自己満足の為だけどな。」
「それでも、墓があるのに、誰も来てくれないのは、寂しい気がするけどな。」
「まあ、先祖代々、とか、生前に自分で建てたりとかすれば、そう考えるかもしれない。でも、それも、生きている人間が考える事だ。死んでしまった人間は、生きている時に何を望もうが、死んだ後の事まで、知る事はない。」
「だが、お前は、彼の墓を建てた。」
「今いるお前は例外として、俺以外に、ここに来る人間はいない。これも、俺の憶測でしかないけれど、あいつは、どこか、落ち着ける場所が欲しかったんじゃないのかって。帰る場所を持たない人間が、安住出来る場所。死んで骨になった人間にそんな事わからないだろうけどな。」

「お前は良くわかっているだろうが、生きている人間は、皆、いずれは死ぬ。お前自身、帰る場所がない。俺も、両親の墓に入る気もない。自然葬も、今は、認められてきれるだろ?」
「自然葬、か。変に墓を増やさないだけ、狭い日本では良いかもな。確かに死んでしまえば、自分には何もわからない。だからといって、死後の事を、全く考えないでいい訳じゃない。法律上もいろいろ規制があるし、あの世に金を持って行けないのは確かだが、死体を始末するには、金が掛かる。」

「生きても、死んでも、金は掛かる、か。でも、引き取り手のない遺体もでてくるんだろ?」
「ああ。それはそれで、規則にのっとって、きちんと処理するよ。さて、そろそろ帰るか。」
「もういいのか?」
「別に、長居するものじゃないだろ?」

 墓に背を向けて、雫は歩き出す。
 俺は、その後ろを追うように歩いて行く。

 あれは、雫の、雫が嘗て『恋人』と呼んだ人間の墓。
 そして、今日は、彼の命日。
 そう、彼が、自殺した日。

 雫は、自分の目の前で自殺した恋人に対して、何を感じていたのだろう。
 俺と知り合う前の雫。
 当時、大学生にすぎなかった雫が、引き取り手のない恋人の遺体の処理の手続きを全てとり行ったと言う。

 身近な人間の死というものは、やはり辛いものだろう。
 俺の両親はまだ健在だが、祖父母は亡くなっている。
 当然、俺も葬儀に参加したが、自らがとり行ったわけではない。
 それでも、それなりに懐いていた祖父母の死は悲しかった。
 それが、老衰であったにしても。

 しかし、雫の恋人の場合は、どういう心境を抱えいたのかは知らないが、自ら命を絶ったのだ。
 雫に見つけられる事を承知で。
 今、この日本で、自殺する人間は、決して少なくない。
 先進国の中では、誇れる事ではないがトップクラスだ。
 安易に、自殺する人間を否定する気はない。
 肯定する気もないが。

「雫は、仕事上、いわゆる、特殊な死体を扱うだろ? 自殺とかも、みるのか?」
「いや。自殺は、特別な場合を除いて、みる事はないよ。」
「でも、雫が法医学の道に進んだのは、彼の影響もあるんじゃないのか?」
「全くないとは言わないけど……。当時、生きている人間に、あんまり興味なかったからね。俺自身が、生きている事にも興味がなかったし。今は、大分違うけどね。司法解剖に対する考え方も、対面する死体に対する考え方も、目指した当初とはかなり違うよ。……でも、心構えについては、あいつの影響を受けてるかもね。」

「心構え?」
「生きる事、死ぬ事、他人と付き合う事。人間というそのもの。」
「ココロを持った限りある命を持つ人間という存在、か。人間は人間を観察するからね。そういう面は、社会学的立場から言っても興味はあるよ。」
「人間の行動は、矛盾しているようで、矛盾してない。合理的であるようで、非合理的。理屈だけでは、決して説明が出来ない。」

 それは、雫自身の事も言っているんだろうか。
 確かに雫も生きている人間だという事、それはわかってる。
 人間である以上、完璧である事はない。
 どんなに、他人の目にそう見えたとしても。

 そして、自分自身にしても、他人にしても、完璧である事を求める事、それは、不可能な話だ。
 人は他人に対して幻想を抱く事が多々ある。
 そうしておいて、勝手に幻想をやぶられて、勝手に失望する。

 得てして、その他人とは、有名人、地位のある人間、名誉のある人間。
 そうした人間は、餌食になりやすい。
 そういった人間は、善良な人徳者だとでも言いたいのか?

 また、個々人の関係においてもそいう。
 信頼関係において、裏切られた時、信じた人間が馬鹿なのだとは言わない。
 けれど、どちらにしても、お互いに責任を持って、信頼関係を結ぶべきではないのか?
 それぞれが、人間という不完全な存在なのだと。

 こういう言葉自体使うのは好きではないのだが、誰が聞いても、酷い人間だ、と思える話もある。
 だが、またそれも人間なのだ。
 どんなに、血も涙もないような人間においても。

 垣間見た一面が、その人間の全てではない。
 ただ、残念な事に、その一面しかみれない場合は多い。
 そして、そこで判断をくだす。
 ある意味仕方のない事なのかもしれないが。

 けれど、もし、その人間と、きちんと向き合っていきたい思ったとき、その全てを知った上で、自分なりに覚悟を決め、挑まなければならないと思う。
 勿論、大多数の人間に対して、それを行う事は無理だろう。
 しかし、一対一ならば。

「雫、今日は、このまま、俺の家に向かって。今日は、完全にオフなんだろ?」
 車での帰り道、そう話しかけた。
「悟の家? 構わないが。珍しいな。」
「いつも、雫の家ばかりじゃ、悪いからな。」
「気にしなくてもいいのに。」

 その言葉が、お互い、いっている事と、思っている事が、異なっているのを感づいている。
 それで尚、その言葉通りに従う。
 建て前もまた、必要な事だから

PageTop

『越える必要のない壁-5-』

 本来なら、これはしてはいけないような気がする。
 それでも、足を踏み入れてしまったのは何故だろう。
 雫は、この行為を非難したりしない。
 それがわかっているからだろうか。

 仕事を早めに終えて、どうしても、直接相手と会わなければならなかった。
 相手の都合、話の流れ上、俺が、そちらに出向く事になった。
 それが、学部は違えど、雫が勤める大学。
 俺が勤める大学も、一応、受験の難関レベルとしては高い国立大学だが、こちらは、日本最高峰と呼ばれる大学だ。
 そんなものは、名前だけだ、と雫は言うけれど、その中で生き残っていくには、やはりそれだけの実力が要るだろう。

 名の通る大学、一般的にいえることだが、そこには、本当に学校のお勉強しかしてこなかった人間も居るし、それだけで、変にプライドが高い人間もいる。
 俺も雫も、全くそういう面を持ち合わせていないか、といわれたら、そうでもないのだが、いわゆる研究馬鹿、といった類の人間も。
 大学の研究室という独特の雰囲気と慣習。
 いや、企業に行っても、研究室に入ってしまえば、そうなってしまう場合もある。

 色々な社会経験を積んで初めて気付く事も多い。
 確かに今現在、俺も雫もかなり仕事面を重視しているが、完全にそれだけに染まらないのは、やはり、それなりに若い頃に勉強以外に社会を経験してきているからだろう。
 それが、決して、役に立つ事だとは言わない。
 何が役に立つか、立たないか、は一概には言えないから。

 約束をしていた、相手と会って、目的としてきた事と研究分野に関する話題を少し交わしてから、雫が在籍する教室へと向かう。
 これだけの色々な学科をもつ総合大学だ。
 同じキャンパス内にあったからこそ、そういう気になった。
 もちろん、同じキャンパス内とは言えども、建物は違うし、広いから、探すのに苦労したが。

 やっと研究室に辿り着き、一応ノックして、その部屋の扉を開けたが、一見しただけでは、雫の姿は見当たらなかった。
 もしかしたら、今日は、観察医務院の方へ、出向いていたりするのだろうか?
 ちょうど、通りかかった研究員らしい白衣の男性に声を掛けた。
「すみません。宮下准教授いらっしゃいますか?」
「あ、はい。おりますが、失礼ですが、どちら様ですか?」
「私、こういう者ですが、こちらを、准教授に見せていただければ、わかると思います。」
 そう言って、名刺を一枚、その男性に手渡した。

 名刺を一瞥し、男性は、「少々お待ちください。」と言って、去っていった。
 確かな肩書きはあるものの、それ自体、仕事上、何の関連性があるか結びつきはしないだろう。
 暫らくして、さっきの男性と共に雫が姿を現した。
 やはり同じように白衣を身に纏っている。
 そうして、仕事上の挨拶を交わす。
「確か、教授、もう帰ったよね。教授室の方借りるから、何かあったら声掛けて。」
 その男に向かって、雫が話しかける。
「では、お茶、お入れします。」
「いいよ。私が自分でやるから。気にしないで自分の事続けて。」
「わかりました。」

「お待たせして申し訳ありません。桂木先生。こちらへどうぞ。」
雫に促されて、研究室の向かいにある教授室へと入っていく。
「何? どうしたの? 何かあったの?」
「いや、別にそういう訳じゃないけど、こっちの大学に用事があったから、ついでに覗いてみたくなって。」
「それなら別にいいけど。」
「もしかしたら、仕事の邪魔した? いきなり、来たから。」
「区切りはついているから大丈夫だよ。ああ、お茶入れてくるから、待ってて。」

 気を使わなくてもいい、そう言おうと思ったが止めた。
 雫が、一旦、お茶を入れるために、部屋から出て行く。
 それから少し経って、お盆に客人用の湯飲みを二つ乗せて戻ってきた。
 テーブルを挟んで、置かれたソファーの片方に腰を掛けた俺の前と、反対側に湯飲みを置いて、雫 がそちらへ腰を掛ける。
「一応、教授や教授の客人に出す用のお茶だから、高級品だよ。」
「どうせ、雫が選んできたんじゃないの?」
「あ、わかる? まあ、そこら辺も頼りにされてるよ。」

 確かに、高級品だというのは、その味からも、香りからもわかる。
 だが、ここまで、俺が違いがわかるのは、やはり雫の影響だろう。
 ちらりと見渡すと、テーブルの端に置かれているもの。
「これって……。」
 俺の視線の先を見て、雫の方から切り出してくる。
「ああ、将棋盤ね。教授の趣味なんだよ。たまに、暇が出来ると、よく相手をさせられるよ。」
 苦笑しながら、そう言った。

「昔、親父にルールを教えてもらった気はするけど、今ではすっかり覚えてないよ。」
「若い人はあんまりね。今は、漫画の影響らしくって、囲碁や将棋をやる子もいるみたいだけど。」
「イメージ的にあんまり、子供の遊びじゃないだろ。何ていうか、老人達が、楽しんでいるイメージがある。まあ、その道でのプロがいるのも知ってるけど。」
「うちの教授は趣味だけど、結構強いと思うよ。俺もたまたま、ある程度は知ってたから、この教室に入って、教授の餌食にされたって感じ。この教室にいる人間は、大概、教授の餌食になってるね。」

「はは、それは、また大変そうだね。」
「最初はまあ、そうだったけど、頭の切り替えにもなっていいよ。」
「でも、どっちにしたって、頭使うだろ?」
「思考経路が全く違うからね。その辺は大丈夫だよ。面白いと思うから上達する。教授にも良い刺激になってるみたいで、だから、相手にされる事が多いよ。実際続けてみると、やっぱり、ある程度、腕のある人間と対戦した方が面白いからね。」
「そういうもんなんだ。」

「次は、どういう手を打つか、その次は……って、相手の事を探りながらね。あんまり知らない人間だと、考えないで打ってくるからね。得てして、そういう手は、上手い手ではないし、手ごたえがなくてつまらないよ。」
「でも、センスってものもあるだろ?」
「まあね。」
「んでもって、雫は、教授のお気に入りな訳だ。」
「確かに、気に入られてるけど、別に、それで、昇進した訳じゃないぞ?」
「当たり前だろ。そんなに甘い世界じゃない。まあ、でも、教授にしてはラッキーだったんじゃない? すぐ傍に、趣味も満たしてくれる相手がいるんだから。」
「それならそれでいいんだけどね。ところで、悟、別に用事ないんだろ? 俺、もう帰るけど、どうする?」

 これは、誘われているんだろうか?
 『どうする?』と聞かれた時点で、拒絶されている訳ではない事はわかる。
 特に、その気があった訳じゃないけど、折角、会ったんだし、この機会は機会として逃す手はない。

「雫の家、行ってもいいか?」
「ああ、わかった。着替えてくるから、待ってて。」

 そのまま連れ立って、車に乗り込む。
「そう言えば、雫のスーツ姿って久し振りだよな。大概、私服着てるから。もったいないよな。折角のオーダーメイドで、値が張ってるんだろ?」
「それを言うなら、悟だって同じだろ?」
「あー、はいはい。そうだね。お前に紹介されたんだっけ。」
「今では、重宝してるんだろ? 大した服道楽でもないのに。」
「それは、お互い様。まあ、でも、良い腕してるから、スーツで恥をかいたことはないよ。本物の服道楽が、あの店の、あの腕を気に入るのも良くわかる。」

 実際、芸能人から、政財界まで、様々な職種の、スーツにこだわりを持った人間が固定客としてついている。
 個人でやっているとはいえ、その道では腕利きのテーラーとして有名だ。
 所謂、有名なブランド嗜好の人間もいるが、こういった手の、個人個人にあわせた、一点物であるオーダーメイドは、各人の拘りと、センスが光る。

 そしてまた、雫は、私服は私服でかなりの拘りを持っている。
 どちらかというと、こちらの傾向の方が強いだろう。
 黒へのこだわり。
 一色にこだわると、どうしても、ワンパターンに見えがちだが、そうはならない。
 雫じゃなくとも、黒い服を好んで着る人間は結構いるらしい。
 だが、それが、本当に様になるか、と言ったら、また別問題だ。

 勿論、雫位の容姿の持ち主だったら、かなりのレベルの服でも、それなりに様になるだろう。
 あまり、カジュアルなものは似合わないだろうが。
 持ち合わせた落ち着いた雰囲気。
 そして、和を漂わせる、漆黒のサラサラとした髪の毛にその瞳。
 それが、身に纏う黒い服と融合している。

 外観は、会ったこともないくせに、母親似だと言う。
 勿論、父親はわからないから、その要素をどれだけ引き継いでいるのかわからないが。
 和服を着せても、かなり似合うだろうな、とも思う。
 母親は、京都では、やはり老舗の呉服屋だと言うから、母親のその様も、かなり、着物とあっているだろう。
 実際、雫自身も、男物なら、着付けも、自分で着る事も出来るらしい。
 一度も見た事はないが。

 いや、違うか。
 着物を着た写真は見た事がある。
 といっても、女物だが。
 今でも、それ程、男臭さを感じさせないが、成長過程の未成熟な男が持つ、中性的な美貌。
 それに、あえて、女性物の着物を着せてフィルムに納められた姿。
 それでいて、所謂いわゆる、女装、とは違った趣向のもの。
 何故、俺が、その写真集をもっているかというと、たまたま、その写真家が、来日して個展を開いた時に、雫と行ったからだ。
 本当に、何故一緒に行ったのかわからない程、たまたま。

 そして、雫が黒い服を選んできる理由。
 元々、好きだった、とは言ってたが、ここまで徹底していなかっただろう。
 それに、雫が決して外す事のない、右耳に飾られている、ブルーのイミテーションのサファイアのピアス。
 雫の様々なものに対する拘りには、何かしらの根底がある。
 その根底に、囚われているかどうかは別として。

 だから、どうしても、その拘りが、気になってしまうのだ。
 もしかしたら、間違っているかもしれないが、何となく、当たりをつけているから。
 それが、どういう類のものなのか、恐らく、根底となっているものは間違っていないと思う。
 それを、尋ねる機会を伺っている。
 そして、まだ、それには早いような気がする。

 雫は、料理が好きだと言うし、誰かに食べてもらうのも、楽しいと言うし、決して手を抜かない。
 手が込んでいるものではない時でも。
 そして、その相手は、誰でも良い、という訳じゃないらしいが。
 俺が、その相手として不足ではないだろう。
 そうでなければ、こう何度も、一緒に食事を摂らない。
 俺が特別、という訳でもないだろう。
 それが、それで、不満である訳ではないし。

 それから、ベッドへ移行し、肌を重ねる。

 重ねた唇に、絡ませ合う舌。
「ん…ふ……ん………」
 僅かに漏れる吐息が、その先の行為を促す。

 ゆっくりと、舌を、肌に這わせていく。
 首筋をなぞって。
 そして、所々、強く吸い上げる。

「あ……」

 その場所が感じると知っているから。
 指で、弄って立ち上がった乳首を舌先で転がし、甘噛みする。
「ふ…ん……あ……」

 胸から下へ、再び、舌を這わせていく。
 臍の窪みに、そして、ペニスに。
 先端から包み込むように口に含んで、刺激をしていくと、勃ち上がったペニスが、更に、硬度を増していく。

 達してしまわない程度に快感を煽っておいて、ローションで濡らして解しておいた雫のアナルをゴムを被せてから、穿っていく。

 緩く抽挿を開始しながら、雫の求めにしたがって、次第に激しく、貫く。
「ん……あ…はぁ……ぁ……」
 俺自身も、限界に近付いていて、雫をイかせながら、俺も、精を放っていた。

 雫とのセックスに甘さを求めた事はない。
 それは、雫とて同じ事。
 けれど、別の次元で、何か、共感出来るものがあるのではないかと思う。
 それは、一体何なのか?

 雫の細くて長い、器用な指先に再び煽られて、快感に身を任せていく。
 そうして、雫のペニスを受け入れて、先程とは違う場所で感じて。

「は……あ……ぁ……んん…」
 感じている事を、隠す必要なんてどこにもない。
 つのる射精感も、口から発せられる声も、全て。

 そして、やってくる絶頂も。

 俺が、雫の家に泊まった事はない。
 拒まないだろうけれど、留める事もない。
 明日、また仕事がある事もわかっているから。

「なあ、雫、来週の水曜、休み、取るのか?」
 別れ際に、そう尋ねた。
「え? ああ。……悟は、知ってるんだったね。」
「俺も、一緒に行っても構わないか?」
「どうして?」
「いや、ただ……すまん。今は言えない。」
「……ああ。構わないよ。」
「じゃあ、細かいことは、連絡くれ。」
「わかった。」

 近付いてきた、『その日』。
 俺は、一歩、前に踏み出す。

PageTop

『越える必要のない壁-4-』

 メッキと本物の違い、それはどこからやって来るのだろうか。
 少なくとも人間において。
 勿論、あからさまにぼろが出るようなメッキを被っている人間もいる。
 しかし、人間というものは、どこまでが本当で、どこからが飾りなのだろうか。
 人間には、後天的に備え付けられる能力を持っている。

 何かを職業とするプロは、始めから、プロとして生まれてくる訳ではない。
 日々の研鑽と努力、そして、経験の積み重ね。
 それがなければ、プロとしてやっていけない。

 確かに、世の中には、何年に一度の逸材、とか、天才、とかいうものが存在する。
 けれど、その人間だって、その道に進まなかったとしたら、どうなっていたかわからない。
 向き不向き、というのは確かに存在して、どんなに頑張ってみても、無理な事は無理なのだ。

 その人間が、何に向いているか、その道に進む事が出来るか、それには、様々な要因が絡み合ってくる。
 生まれや育ち、周囲の環境、社会情勢など。

 俺自身、職業として、興味を持った道に進み、それで、生きていけているのだから、運もよかったのだろう。
 その運は、どこからやって来るのだろうか。
 そして、どうすれば手に入れられるのだろうか。

 雫の場合もそうだ。
 確かに、生まれ(血縁としてではなく)も、育ちもある程度までは良い。
 そう、ある程度までは、だ。
 しかし、あそこまで、『本物』として、身についているのは、高部の存在も大きいだろう。

 限りあるチャンスを、ものにする。
 一期一会、それは、人と人、そして、人と何か別のものに対しても当てはまる。
 折角、出会えても、上手くいかない場合もある。
 気付かずに通り過ぎて行ってしまう事も。
 その中で、何かしらの縁を結び、それが、どういうカタチでかはわからないが、実る事もある。

 振り返ってみると、運命付けられているように見える事でも、決してそうではない。
 偶然と必然、そして、その境界。

 数多といる人間の中で、出会い、そして別れ、何らかの関係を持つ人々。
 そんな中での、俺と雫と言う二人の人間。
 興味を持って、始めに近づいてきたのは、雫の方だった。
 雫は、一体、俺のどこに興味を持ったのだろうか。

 俺も、雫も、自分からは、相手を切り離さない。
 相手の方から、何かしらの決別を渡される。
 去るものは追おうとはしないが、決して『来るもの拒まず』といった訳ではない。
 それなりに、相手を選んで付き合っている。
 お互いを切り離そうとしないから、俺達の関係が終わりを迎える事はない 。

 では、セックス感は、といわれると、微妙な線がある。
 俺も、雫も、状況は違えど、『ウリ』をしていた。
 それに対する、捕らえ方も違うだろうが。
 ある程度安全性を保障され、管理された状態で、自ら進んで足を踏み入れ、行っていた俺と違って、雫の場合は、かなりの危険性を伴っていたはずだ。
 後から振り返って、雫は『運が良かった』とそう言うけれど。

 靖史にしてみても、その観念は違えど、自らの意思によって、管理された状態で、行っていた事だ。

 その商売から足を洗った後は、気に入った相手としかセックスをしない。
 『気に入る』というのも微妙なところだが、『好きだから』『愛しているから』そういう感情を、セックスという行為に投射させたことはない。
 いや、雫の場合は、もしかしたら違うかもしれない。
 今は確かにそうかもしれないが、かつて、雫が唯一、恋人と呼んだ人間、彼に対してはどうだったのだろうか。

 恋人として付き合っても、その関係は永遠ではない。
 感情のすれ違いがあって別れる場合もあるが、その絶対的な終焉を雫は経験している。
 雫は、その別れを何となく予感していた、というけれど、それにしても、何故……という感は否めない。
 風の便りに聞いた、その人間の事も、耳にはしているけれど、どうせ、尾ひれはひれついている事だから、どこまで信頼して良いのかわからない。

 ただ、どんな人間だったにしろ、それからの雫に影響を与えている事は間違いないだろう。
 死して尚、というか、死んだからこそというべきか。
 そんな彼を羨ましいとは思うまい。
 それは、何に対しても失礼な事だから。

 俺にも、恋人と呼べる人間が、いたこともあるが、残念ながら、性格の不一致で別れてしまった。
 勿論、その中から学んだ事はあるが、それが、今の自分にどれだけ生かされているかどうか不明だ。


 一日の仕事を終えて、今日は、雫とは約束していなかったので、一人でバーへと向かう。
 元々、一人で行く事が多かった場所だ。
 そして、独りでいることを気兼ねさせないバーだ。

「いらっしゃいませ」
 マスターのいつもの声が、俺を迎え入れる。
「何か、良いものある?」
「そうですね。新しいものではないのですが、悟さんなら、こう言ったものは如何でしょうか。」
 こういう場合、当てが外れる、といった事はまずない。
 勧められたグラスを手に取り、口に含む。
「良いですね。これも。やっぱり、マスターの腕は確かだよ。」
「ありがとうございます。」

「そう言えば、蛍、来てる?」
「ええ。たまにいらっしゃって下さいます。あまり、好み、と言うのもないんですが、好き嫌いされないので、色んなものを召し上がっていらっしゃいますよ。それに、結構、お強いですね、彼。」
「あ、そうなんだ。そこまでは知らなくって。」
「お若いのに、年配の方とも馴染んでいらっしゃるようで、御贔屓にしていただいてます。紹介していただいてありがとうございます。」
「何度も足を運んでくるのは、マスターの腕がやはりいいからでしょう。」
「恐縮です。」

「確か、マスターは、雫にスカウトされたんですよね?」
「ええ。」
 このマスターの腕も本物なら、マスターの能力を見抜いた雫の目も本物だろう。

「どうやって、口説かれたんですか?」
「口説かれたって……。元々知り合いで、私が、あるバーでバイトをしていたところに偶然いらっしゃって、雫さんに、いえ、オーナーに声を掛けられたんです。自分の店を持ちたいと思わないか、って。」
「へえ、それで?」
「まだバイトの身でしたし、独り立ちしてやっていくのには正直不安でしたが、『勉強して、この道で食べていく覚悟があるのなら』と言われまして、折角のチャンスですし、1週間考える猶予をいただいた結果、やってみる事に決めたんです。」
「でも、雫の事だから、色々言われたでしょ?」
「ええ。まあ。でも、あれくらいでなければ、ご自身で店を開こうなんて考えなんでしょう。」
「確かに。」

「それから後も、驚かされましたよ。資金面ではもちろん、人脈や、内装、外装、コンセプトにまでの細々としたこだわりようには。」
「マスターも参加されたんでしょ? マスターご自身が、一番いる時間が長いんですから。参加はいたしましたが、文句のつけようもありませんでしたよ。」
「でも、お酒の面に関しては、マスターが決められたんでしょ?」
「ええ。そちらは。それでも、そちらにも、かなり資金を割いてくださいましたし、ある程度のコネはいただきました。」

 コネクション、ねえ。
 確かに、色んな方面の人間が、色んなカタチで関わっているのだろう。
 そして、その元には、恐らく、雫と高部が絡んでいるのだろう。
 それだけのものが揃って、これだけのバーを存続させる事が出来ている。

 だからこそ、俺も靖史にこのバーを紹介したし、靖史も気に入って通ってくるのだろう。
 靖史のようにある意味特殊な人間でも、ここなら受け入れてくれる。
 そして、あの、靖史の特殊性は、もし、靖史が未成年でなかったら、雫に紹介した時点で、雫が手を出さないでいると言う確証はなかった。

 でも待てよ、もしかしたら……。
 下世話な話だが、興味はある。

「ねえ、マスター。貴方、雫と知り合いだった、って言ったけど、本当に単なる『知り合い』それとも『オトモダチ』?」
「ええと……あの、それは……」
「あ、やっぱり、『オナカマ』かな? 大丈夫、誰も、この会話を聴いている人なんていませんよ。勿論、貴方の恋人にも言ったりしませんし。」
「関係は……否定しませんよ。でも、私には、オーナーは、確かに、しっかりしていて、優しいですけれど、刺激的過ぎます。」
「刺激的、ねえ。」

「こういわせてもらうのはなんですが、悟さんも、結構イイ性格していらっしゃいますよ。そのくらいでなければ、オーナーとまともに渡り合っていけません。」

 イイ性格、ねえ。
 賛辞なんかじゃないけど、確かに、雫は、イイ性格をしている面がある。
 あまり不特定多数の相手に見せる事はないから、オーナーもそれなりに、雫の事をわかっているんだろう。
 そして、『イイ性格』と言われて、それを、賛辞として受け取ってしまう、雫の顔も浮かんでくるようだ。

 オーナーはああ言ったけれど、俺に、本当に雫とまともに渡り合っていく事が出来るだろうか。
 だが、近しい人間にそう言われて、悪い気はしなかった。

 雫が雫の為に、そして、そんな雫が作り上げた、このバーを愛する人の集う場所で。
 そして、その中の一員である俺が、やはりこの場所を求めるように。
 出会い系ではないこの場所でも、やはり、出会いはあるのだと。

PageTop

『越える必要のない壁-3-』

 相手に対して、気を使うのと、気を配るのとでは似ているようで大きく違う。
 対象としても、どちらかというと、気を使う、というのは、離れた位置にいる人間に対して使うことが多い。
 気を使い過ぎると、より遠く相手を感じてしまう事もあるし、疲れてしまう。
 また、その事に対して、相手が敏感だと、こちらが気を使い過ぎている事に対して、気後れさせてしまうことになる。

 相手は、どんなに親しい人間だとしても、自分とは異なる人間なのだから、全く同じものだ、と考えてしまう事は出来ない。
 それは、言葉遣い、選んだ言葉、態度や仕草、生活に趣味、趣向、様々なものに対する好み、感性、そして、ココロ、全てにおいてそうだ。

 俺と雫にしても、どこかの恋人にしても、夫婦にしても、友人にしても、ある程度の気配りというものは必要となってくる。
 また、それがなければ、不快な思いをしたり、させたり、また、傷付けたり、付けられたりする事になるだろう。

 それぞれを、それぞれの個性を持った一人の人間として付き合っていく事。
 人間関係において、始めから、それを知っている訳ではないし、成長する中で、その事を身に付けていく。
 相手の事を配慮する時、その結果、どういう行動に出るべきなのか、それは、その時その時によって異なる。

 異なるからこそ、それが、正解だったのかわからない。
 歳をとり、経験を重ねてみても、失敗してしまう時は失敗してしまう。
 積み重ねるべき経験に、終着点はないだろう。

 もし仮に、他人に対して、気遣いや配慮と言うものが全て面倒になって、放棄してしまったら、そこで終わりだ。
 独りで生き抜いてみせると。
 それなりに、表面上では、事務的に繕って、相手と付き合っても、誰にもココロを許さない。
 勿論、それも、その人なりの生き方だし、否定するつもりはない。
 他人にココロを許さず、理解される事を拒否し、己の意思を持って生きる事は、決して平坦で楽な道ではないから。

 雫に限らず、人の中には、絶対的に入り込めない領域、というものが存在するだろう。
 恐らく、俺の中にもあると思う。
 何もかもを許せる存在、それは、理想的かもしれないけれど、巡り合うのは難しいだろうし、そういいながら、どこかで、妥協している点が存在しているような気がする。
 そして、そんな関係においても、やはり、相手に対する配慮というものは必要だろう。
 
 雫との長い付き合いの中で、俺なりに、雫に対して、気を配っているつもりだ。
 けれど、こうして振り返ってみると、雫のそういう態度、というのは、あまり思い起こせないのだが、それでいて、気を許せる相手、として認識できているのは、雫が、配慮の上に配慮を重ね、それを、相手に気付かせないようにしているからなのだろう。
 時折見せる態度も、そのさり気なさに、こちらが気負う事はない。

 今の、俺の雫への態度は、幾分か、雫にも気を使わせている事だろう。
 俺が、雫に対して、気を使っている、という事を感じ取っているだろうから。
 これは、俺の雫に対する『甘え』なのかもしれない。
 それを許す、雫は今の俺に何を感じ取っているのだろうか。
 何にせよ、もう少し、もう少しで良いから時間が欲しい。

 ここのところ、恒例化してしまったように会う約束を取り付け、バーで落ち合って、雫の家へ向かう。

 まだ時間が早い事もあって、雫の料理を、堪能させてもらう。
 今回食べさせてもらったのは、いわゆる、『京料理』というものだろう。
 料亭で出てくるほど豪華ではないにしろ、それなりの素材を揃え、綺麗に盛り付けらている。
 その話題に触れると、『一人でここまで作っても、何となく寂しいからね。ちゃんと味がわかって、綺麗に食べてくれる相手がいると嬉しいよ』と逆に感謝された。

 日本人だからといっても、綺麗に箸を持てない人間も今は多い。
 料理への手のつけ方、箸の使い方一つにしても、本当は、かなり細かな作法というものがあるのだろう。
 俺は、一応、基本的な事は知ってはいるが、あまり細かい部分までは知らない。
 雫の方は、きっと、きちんと身に付けているだろう。
「確かに、事細かく決まりはあるけれど、そこまでして守る必要はない。相手を不愉快にさせない程度に知っていて、美味しく食べてくれる方が、堅苦しく守り通すよりもいいよ。」
 そう雫は言う。
 雫にとって、それが、どの程度なのか、と尋ねてみると、『箸をきちんと使えて、後は、口に食べ物を入れながらしゃべらない、っていう程度かな』という答えが返ってきた。

「誰がどうして決めたのか知らないけどさ、不必要なほど、細かい決まりってあるよね。和食にしても、洋食にしても。まあ、多分、今は、昔ほど厳しくないだろうけど。」

 勿論、決まり事は、食事に関するマナーだけではない。
 社会で生きていくためのルール。
 道徳の規範。
 そして、様々な法律。

 法律と言うものは、本当に、事細かに定められている。
 知らなかったでは済まされない法律。
 弁護士という立場の雫なら尚更だろう。
 立場上、その知りえた知識によって、法律を守る。
 それでいて、雫の感じるところ、不要だと思える程のものをたまに皮肉ってみせる。
 だからもし、多少違法な事でも、見逃してみせるケースもある。
 例えば、俺と靖史の件においても。
 その事で自体、雫の立場が悪くなろうとも。

 表面上は、道徳や法律は、作動しているように見えても、それが届かない場所もある。
 雫自身が、そういった状況下において、育ってきたから、そういう事もわかっているのだろう。

「そう言えば、雫は、父親はわからないけど、母親の事はわかるんだろ? 会って、話しとかした事あるのか?」
「ないよ。物心つく前に、別れて出て行ってしまったからぜんぜん覚えてないし、宮下の祖母が決して会わそうとはしなかったからね。」
「実家から離れた今なら、会えるんじゃないのか? 会おうとは思わないのか?」
「物理的には可能だよ。誰が、母親か、知っているし。でも、会おうとは思わないな。恨んだ事もあるけど、今はもうそんな気はないし、昔、何があったのかを知ろうとも思わない。知ったところで、何も現状は変わらない。」
「もし……もしだよ? 向こうから、会いたいって言ってきたらどうするの?」
「……そうだね。俺は、母性本能、なんてものは信じないよ。でも、彼女が、彼女の気持ちが、それで治まるのなら、一度だけでいいのなら、会うだろうね。」
「交流する気はない、ってことか。」
「そこまで、彼女の懺悔に付き合う気はないし、それに、知らないでいた方が良い事の方が多過ぎる。まあ、この年齢になっても、連絡がないって言うのは、向こうも、別に、そんな気はないんだろ。」

「まあ、お前には、涙の再会、っていうのは似合わないけどな。」
「だろ?」
「でも、今は連絡がなくても、もしかしたら、死ぬ間際に、『一度で良いから、会って、謝りたかった』とか言ってくるかもしれないぜ?」
「はは。そうしたら、そうしたで、手を握って涙を流しながら笑顔で『大丈夫、心配しないで、僕は、幸せにやってるから、お母さん』とでも言って見せるよ。彼女の気がそれで少しでも晴れるなら、それで良いじゃない。」

 雫の母親は、何を思いながら、雫を生み、そして捨てたのだろうか。
 いや、雫の実家に捨てさせられたのか。
 結ばれる事のなかった、母と子、父と子、という絆。

「雫は、それなのに、遺伝子鑑定や、親子鑑定をするんだろ? なぜだ?」
「犯罪上の遺伝子鑑定は別として、親子鑑定って不思議だよね。どうして、この人たちは、そんな事に拘るんだろうって。何を確かめたくて、鑑定するのか。もちろん真実を伝えるけれど、望んだ結果を得られたんだろか、ってね。」
「雫は、血の繋がっている事が、身近な存在だと思わないもんな。」
「いくら遺伝子配列に共通点があったとしても、やっぱり他人は他人だもの。俺には『生みの親より、育ての親』っていう方が、しっくりくるな。」

「遺産相続とかで、鑑定依頼されることもあるんだろ?」
「そうだね。母親はさ、そのお腹を痛めて生むんだから、自分の子供だって確実にわかるだろ? でも、父親の場合は違う。信じるしかない。そして、実際疑う人間もいる。でも、実際思うよ。一言にDNAって言っても、その核の中にある、DNAを調べるんだけどさ。細胞にはミトコンドリアDNAがあって、それは、母親のものを受け継ぐんだ。女性の卵子と男性の精子が絶対に必要だけど、その情報量として受け継ぐのは、女性側のほうが圧倒的に多い。精子も確かにDNAに影響を与えるけど、媒介に過ぎないんじゃないかって。確実に血縁を残したいなら、婿養子、っていうカタチの方が確実だろうな。そうなると、本当に、オトコの立場ってどうなるんだろうね。」
「仕事さえしてればいい。そして、優秀な遺伝子さえ分けてくれたらいいってか? でも、実際人工授精が可能になって、それを望む女性だって出てきてるんだろ?」
「見た目はね、何となくわかるんだよ。でも、優秀な男性の精子の遺伝子配列が、果たして、優秀なのか? と問われると、そこまでは答えられないね。」

「以前さ、『女は子を産む機械』って言って非難された人がいるけど、『男は種として存在する』って言う方があってるような気がするよ。」
「種はいっぱい余ってるよ。女性は、一度に何人もの男性の精子を受け入れることは出来ない。そして、女性より男性の方が数が多い。その上、子供を生まない事を選択する女性も出てきた。」
「男尊女卑の時代が続いてきたけど、そうしなきゃ、オトコはやってられなかったのかな。今は、行き過ぎて、女尊男卑って言うのも出てきてるけど。『原始、女性は太陽だった』ってやつか。」

「ああ。まあ、何もかも、オトコとオンナが平等っていうのは難しいだろうね。そもそも、オトコとオンナに限らず、平等、っていう原理が難しい。ただ、何となく、生命の鍵は女性が握っている感じがするけどね。」
「お前、そんな事考えながら、仕事してる訳?」
「まさか。でも、他人事だから面白いよね。本当の遺伝子の繋がりと、ココロの繋がりって。」

 確かに他人事だろう。
 けれど、そんな、親子劇の中で、雫自身は何を考えているのだろう。
 血の繋がりとは関係のない世界で生きてきた雫が、この職を選んでいる。
 もちろん、『血縁』が、雫をこの仕事に就かせた原因ではない。

「何にしても、興味が尽きないのは良い事で。」
「それは、悟だって同じだろ? じゃなきゃ、何かを研究し続けるなんて出来ない。」
「まあな。それ以外でも、生きていく内は、勉強ばかりだ。」
「勉強も、楽しみも、尽きない方が良いだろ?」

 楽しみ、ね。
 これも、楽しみの一つ、か。
 それならば、と。

 ベッドの波に溺れて。
 雫に貫かれて、その身を委ねる。

「ん……あ……ああ…はぁ…ん…」
 快感を享受する楽しみを。

 愛撫を施された肌は熱を持ち、その感覚は研ぎ澄まされている。
 僅かな刺激が、更なる快感を呼び起こす。

「ふ……ぅん……んん……」

 アナルの裡も、ペニスも擦りあげられて、堪らずに、放っていた。
 締め付けた、アナルの裡で雫も同様に。

 それが、一度きりで終わらないのは、お互いに享受し合うことを、望んでいるから。

 雫の裡に入り込んで、そのカラダを堪能する。
 突き上げるたび、従順に反応する、官能の兆しを。

 そして、果てた欲望は、気だるい満足感をもたらす。

 いつの間にかキッチンから戻ってきた、雫に手渡された、グラスのレモン水で喉を潤わせる。
 渇いた喉にも、満たされたカラダにも、安らぎの一時。

 僅かに知っている過去から、それを引きずり出して、どうしようと言うのだろう。
 出来れば、それを、現在に、未来に繋げたい。
 そう、何が待つかわからない、これから先へと。

PageTop
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。